キーウの石像 Київська кам'яна статуя

ヴァレリー・ロバノフスキー、ディナモ・キーウ、ウクライナサッカーの忘備録

ヴァレリー・ロバノフスキー

ヴァレリー・ロバノフスキー 
Валерій Лобановський
Valery Lobanovskiy

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1939.1.6 - 2002.5.13(63歳没)
生誕 キエフソビエト連邦
死亡 ザポリージャウクライナ
身長 187cm
ポジション FW

 

選手時代の経歴

クラブチーム

1959 - 1964 ディナモ・キエフ 150試合42得点
1965 - 1966 チェルノモーレツ・オデッサ 63試合20得点
1967 - 1968 シャフタール・ドネツク 53試合16得点

ナショナルチーム

ソビエト連邦代表 2試合0得点

 

監督時代の経歴

1969 - 1973 ドニプロ・ドニプロペトロウシク
1973 - 1982 ディナモ・キエフ
1975 - 1976 ソビエト連邦(兼任)
1982 - 1983 ソビエト連邦
1984 - 1990 ディナモ・キエフ
1986 - 1990 ソビエト連邦(兼任)
1990 - 1992 UAE
1994 - 1996 クウェート
1997 - 2002 ディナモ・キエフ
2000 - 2002 ウクライナ(兼任)

 

タイトル

選手時代

ディナモ・キエフ

ソビエトトップリーグ 1回(1961)
ソビエトカップ 1回(1964)

監督時代

ドニプロ・ドニプロペトロウシク

ソビエト1部リーグ 1回(1971)

ディナモ・キエフ

ソビエトトップリーグ 8回(1974、1975、1977、1980、1981、1985、1986、1990)
ソビエトカップ 6回’(1974、1978、1982、1985、1987、1990)
USSRスーパーカップ 3回(1980、1985、1986)
USSRディナモゲームズ 1回(1987)
ウクライナナショナルリーグ 5回(1997、1998、1999、2000、2001)
ウクライナカップ 3回(1998、1999、2000)
ヨーロピアカップウィナーズカップ 2回(1975、1986)
ヨーロピアンスーパーカップ 1回(1975)
CISカップ 1997、1998、2002

ソビエト連邦

UEFA欧州選手権 準優勝(1988)
夏季オリンピック 銅メダル(1976モントリオール

UAE

AFCアジアカップ 4位(1992)

クウェート

アジア大会 銅メダル(1994)
ガルフカップ 優勝(1996)

表彰

ウクライナ最優秀監督 5回(1997、1998、1999、2000、2002)
ヨーロッパ最優秀監督 3回(1986、1988、1999)
ワールドスポーツマネージャー 1975年
フランス・フットボール紙 史上最高の監督(2019年) 6位
ワールドサッカー紙 史上最高の監督(2013年) 6位
ESPN 史上最高の監督(2013年) 8位

その他

ウクライナ英雄 2002年
ウクライナ勲章 クラスII 1998年
ウクライナ勲章 クラスIII 1998年
偉大なるウクライナ人(2008年) 6位
労働赤旗勲章 1987年
FIFA功労賞 2002年
UEFA功労賞 2002年

 

人物

選手・監督と生涯の大半をウクライナの名門「ディナモ・キエフ」と共に歩み、ソビエト連邦代表、ウクライナ代表と兼任もした、世界的な名将ヴァレリー・ロバノフスキー。

現役時代はコーナーキックから直接ゴールを決める「バナナシュート」で人気を博した左ウイングで、ディナモ・キエフ、チェルノモーレツ・オデッサシャフタール・ドネツクでプレーし、1968年に29歳で現役を退き、翌年の1968年から当時ソ連1部(実質2部)のドニプロの監督に就任し、指導者キャリアが始まった。

70年代にはオレグ・ブロヒン、80年代にはイゴール・ベラノフ、90年代にはアンドリー・シェフチェンコと3人のバロンドーラーを輩出し、ディナモ・キエフを2度のカップウィナーズカップ優勝に導いた。

ボールを足で扱うため「不確実性」と「曖昧さ」が色濃く、労働者を中心に広まっていたため、アカデミックな研究の対象にならなかったサッカーに、スポーツ科学を導入した先駆者だ。地元キエフ体育大学の研究者アナトリー・ゼレンツォフを招聘し、科学的なデータをもとに「トレーニングモデルの開発」「コンピューターを駆使したデータ分析」「コンディション管理」など導入した。

60年代にヴィクトル・マスロフが発明したプレッシング戦術を、科学トレーニングと厳格な規律によって昇華。ピッチ上の自由は与えられず、徹底的に統率されたチームは「ロボット」と揶揄されたが、電光石火の高速カウンターは当時の西欧のメディアからは「未来のサッカー」と称賛された。そのロバノフスキーのサッカーは、ユルゲン・クロップラルフ・ラングニックを始めに今もなお、大きな影響を与えている。

 2002年5月のメタルルグ・ザポリージャ戦後に脳卒中で倒れ、15日に63歳で亡くなったロバノフスキー。ディナモ・キエフのホームスタジアム「スタディオン・ディナモ」は、「スタディオン・ディナモ・イメニ・ヴァレリー・ロバノフスキー(ロバノフスキー・ディナモスタジアム)」と改名され、2003年には記念碑が設置された。